昭和43年10月01日 朝の御理解



 御理解 第8節
 「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」
 
 信心しておかげを受けてくれよと。立教の神伝が教祖金光大神に下りました。そのどうしてその立教神伝が、金光教がいわば出来なければならなかったかと。世間に何ぼも難儀な氏子がある、その何ぼうもある難儀な氏子の取り次ぎ助けというところに立教の意義があるのです、ね。ですから、お互いが取り次ぎ助けられなければ神様も喜んで下さらん、金光大神この世に御出現の意味もない事になりますね。
 どうでも私どもが金光大神のお取り次ぎを頂く事によって、難儀から開放される。人間の真実幸せな生き方を身に付けさせてもらい、天地の神様のご守護の中に日々を有り難い、勿体無いで過ごさせてもらえれるというところに、金光大神に現れなさった神様の願いが、金光大神の上に現れておられる天地金乃神様の願いがある
 今ご理解にかからせて頂く前に、そこ「修行生のおりなさいますが」、ご理解八節だして皆カバンの中から、ね、あの教典を出したり、帳面を出したりしてから前に並ぶ。一生懸命にカバンを探しよんなさいます、鉛筆が入ってないらしい。私それを見よったらおかしゅうなってから、「           」ははは。ね、どこから降ってくるか、湧いてくるか分からんように、今ここに探しておる物がね。
 ほんにポッとこう与えられるという時、ね。お互いがですね、幸せとは幸せとはと言うて、カバンの中を探しておるようなもんじゃなかろうかと私は思うたこと、ね。そういう時にですね、誰かがポッとこう投げてくださる人がここにあったら、こんなに嬉しい有り難い事はない。入ってない物を一生懸命探してる、ない、ね。そこにはないて、ね、そこにはないって。
 分かってるところを、そこにありはせんかと思うて一生懸命探して一生を終わってしまう。それが私は難儀な氏子の実態ではなかろうかと思うんです。ね、幸福になりたい、幸せになりたい。ね、本当に生きていきたい。そういう願いを持たない者はありませんから、まあいわばあくせくとして働きもする、またその、幸せ、幸せと言うて探して回るのですけれども、ね、
 その幸せはそれこそ雲の彼方にしかないものであって、私共のそうした願いの者の上に幸せが訪れる事は決してない、ね。そこんところをですね、ね、ハッキリ教えて下さってあるのが私は金光大神だ。またそれを下さる事の出来るのが天地の親神様だと。そこで、ね、金光大神の言われること、教えて下さる事を本気で身につけるという事の方が先決問題だという事をですね、まず知らないけません。
 でないとですね、その聞きながらそれを、そう思い込み分からないとですね、今の修行生、カバンの中に入ってもいない物を一生懸命探しておるのと同じですよ。そこにこの、そこから与えられる。そこで私は今日のこのご理解八節の中に、子供の中に屑の子があれば、それが可愛いのが親の心じゃと。不信人者ほど神は可愛い。信心しておかげを受けてくれよと。ね、信心してどのようなおかげを受けるかと。
 昨日ある方が家移りをなさった。それで家移りのお礼のお届けがあった。その前の日の29日の日に家移りをする事になった。所がどうも29日というのは日が悪い。29ちいうか憎憎しいち。だから29は苦のつくけんで色々その思い悩んだあげくに感じついた事は、はあこれは29というて二苦と言わずに福と言えばいい。福福という事になる言うてまあ家移りをしたというお届けがあったんですけれどもね。
 その人はこの福岡市福岡県の福という字を、まあ心に描いてまあ家移りを致しました訳ですけれども、果たしてその福福しい事が続く事かどうかそれは分かりませんよね。けれども信心によって福福、ね。その二苦という苦がつかないと、ね、福というのはふは不ですね不思議のふ。苦は苦しいくこの福にすれば苦はないという事になる。ね、私共がねその福福、福福しい事ばっかりを願うだから福福しい事にならんのだと、ね。
 それはなかなかの思い方はいいですね。それははあ、今日は苦のつく日だから行くまい、行くまいと思いながら、もうするのはやっぱり、気分の上にも嫌ですね。そこで心の中に考え方を変えた。はあ福福と言やええ。二苦二苦と言わずに、福福しいと言やええ。と心に福を求めて、何時もおりますから、その福という、はあ福なら縁起がええ、福の神様の福であるから。
 と言うてなら、果たして福の神が、私がそこに舞い込んで来るような事になるだろうか。本当に福福しい事になるだろうか。それはなかなか難しいこと、いや出来ないこと。ね、自分守るでそう変わったぐらいなことで福がついて来る筈はない。けれどもね、福と言うこと、苦がないという事。ね、私どもの行く手に苦はないと。ね、そう悟らせて頂けれるところに、私はお道の信心があると思う、ね。
 それがね、やはり本気であの、信心を頂きませんとね。難儀な氏子あり、取り次ぎ助けてやってくれと。またここに信心しておかげを受けてくれよと、こう仰るおかげというのは、苦のない世界、ね。苦のない世界に住んでくれ、苦のない日々を過ごしてくれという事なの、ね。福福しいおかげを受けてくれよという事じゃない。ね、金満家になってくれよ、健康になってくれよという事じゃない。
 金満家ならずとも、ね、例え体は言うなら病気を持っておりましても、ね。例えばそういうですね、私昨日、ある方からお届けさせて頂いたんですけれども、もうとても顔は綺麗なんですけれどもものが言えない、ね。本当の、さんじゃないらしい。少しは聞こえる、少しは言える。その方が今度お嫁に行かれる。その相手の方も、この人は本当のさんです、ね。ですからもう、生まれつきね。
 生まれつきにもうそういう例えば、もう背負うて、いわゆるそういう十字架を背負うて来ておる。ね、んなら、こういう人達はです、もう一生難儀かと言うとそうじゃないです。ね、そういう人達が金光大神のお取り次ぎを頂いても助からんかて、そうじゃないて。なら私共のように五体、おかげを頂いて健全なおかげを頂き、ものも言われ耳も聞こえる、目も見える、手足も動く。
 どこぞどう、いわば不自由のない私共でもです、ね、心がけが悪いと一生、やっぱり不幸せで過ごさんならん、ね。それを、例えばものもいえない耳も聞こえないというような中にあってもです、人間の幸せというものは本当に頂いていけれる、そういう私は不公平のない道、そういう信心、ね、そういう人でもおかげを頂けれる道、ものの言えない人がものが言えるようになるとか。
 目が見えないとが目が見えるようになるとか、聞こえない人が聞こえるようになると。それが幸せではない、そういうおかげじゃない。金光大神、難儀な氏子がですね、取り次ぎ、お取り次ぎの信心、お取り次ぎのお徳によって、ね、信心させて頂くところから、信心しておかげを受けてくれよと、こう仰るそのおかげが受けられる道なんです。ね、そういうおかげとはどういう事かと言うとです。
 私共が福から福を求めて行くというような信心から得られない、ね。それを言うならお取り次ぎのお徳によって信心を分からせてもろうて、この世に苦しい、この世に難儀はない、ね。この世に苦しい事はないって。と分からせてもらうという事は、悟らせてもらうという事はです、ね。そういうおかげを受けてくれよと言うのである。まあ、いつもの言葉で申しますなら、あるものは神愛のみだと、ね。
 あるものは苦労ではなくて修行のみだと、ね。そういう生き方受け方それが本当な、それが本当の信心なんです、ね。苦労がない、信心させて頂く者の前には、あるのは修行だけだ。苦労は一生ある一生が修行じゃと、ね。困ったとか困るとか、ね、という事はない。恐いものもなからなければ、困ったという事もない。信心させて頂く者の前にあるものは、あるものは神愛のみである、ね。そしてなるほど神愛だなと。
 なるほど苦労と修行がこのようにも違うもんだなという事をです、私は実感として頂き、また現し、ね。自分の身に体験していく事が信心だと私は思う、ね。なるほど神愛だなと、なるほど苦労と修行がこのようにも違うという事をです、分からせて頂くところに生きる楽しみというかね、生き生きとした生き方というか、ね。その喜びがあると私は思う。私どもが、ね、
 いわゆるおかげからおかげを求めておるというようなのは、ね、それは、ね、いわば目先、目先のおかげですね。けれどもそのおかげというものは、ね、信心しておかげを受けてくれよと仰るおかげではない。それは本当の幸福につながるおかげではない。そこで信心を一つ根本的なところから頂いて、ね、それにはです我屑の子の自覚というか、私ほどの不信心者と。信心しておっても、信心者という事じゃない、ね、
 それで不がつく。いわゆる私のような不信心者という自覚、ね。そこから実意丁寧な信心がなされ、神様の可愛いというお働きかけを自分の上に頂き、ね。そこから信心しておかげを受けていこう。おかげを頂いて行かなければならん。不信心者ほど神は可愛い。信心しておかげを受けてくれよと。ここのところを私共が一つ頂き、ね。毎日お参りしよる、ね、けれども一日というものを振り返ってみるとです。
 もう何と言うかね、お粗末ご無礼である事の多いのに驚くぐらい。昨夜も私夜の御祈念にその事を神様に、昨日、もう9月の一番最終の日でございますから、9月一月のことをじっとこう、思わせて頂いた。広大なおかげを頂いて、まあ頂いてまいりました。それは引き換えてこのような広大なおかげを頂いて参りました9月ではございましたにも関わらず、私の信心というものは一向、進展もなし。
 本当に喜んで頂くような修行もよう出来ず、いわゆる不信心者の見本のような自分であるという事に気付かせて頂いた。そのような事をお礼やらお詫びやら心行くまでさせて頂きよりましたら、あの北極線ですね、北斗七星とこう頂くんです。暗い道を例えば、道を行く人旅をしておる人、また航海をしておる例えば船なんかが、それをまあ目当て目印して、はあ自分の船が今どの方角へ進んでるんだと。
 自分はどういう方へ道をとっておるんだという事が分かる訳ですね。そこに一つの指針というものが出来る、ね。そして私はその、お礼やらお詫びやら、もう心行くまでさせて頂いておりましたらね、そのようなお知らせを頂いてから、私の心裏に響いてくること。それはね、あの、昨日聞いとったけど忘れた、あの、銀座ナンとかって言うたかな、何でしたか。銀座ブルースか何かというごたるですよ。
 あの1丁目の柳かというのがありましょうが。私はこの歌をはじめて聞いた時に、はじめの間はそう思わなかったけども、あの一丁目の柳がというところに、のところから、はあこの歌は違う、流行るな、受けるなと私は思うたが、やっぱり大変この流行しておるそうですね。例えばですね、私共の一日というモノをですね、本当に振り返ってみると朝参りもした、ね、昼も参ったと、例えば言うてもです。
 御神前に出て色々お礼を申させて頂きよると、あそこもお粗末であった、ここもご無礼であったという事に驚くぐらい。それを一月まとめて思うて見ると、こういういわばスキだらけの信心の中に、ようもようもこの一月、このようなおかげを受けてという事の、お礼が、ね、繰り返させて貰わなければおられない、繰り返しお詫びをさせて、貰わなければおられない。ね、
 そのお詫びを心行くまでこうさせて頂いて。ちょうどその、何とかというその歌じゃないですけれども、さほどな事はないような歌であっても、そこに一つのアクセントがつく、ね。いわゆる心行くまでの、お礼が出来、心行くまでのお詫びが出来ない、ね。そこから例えば、10月に入らせて頂く一つの方向というか、指針というものが、こう頂けれる感じがする。
 私は昨日も夕べ御祈念に参った方達に申しましたが、これは私一人でもいや私一家だけでもこれはあの、お話聞いていたんですけども、甘木の教会あたりは前宵祭、宵祭りというのがこの一番月末の31日の日にあるそうです。甘木の初代あたりはやっぱり私が夕べ実感しましたような、その実感があの宵祭りになっておったのであろうと。一月を振り返らせて頂いて、神様に心行くまでのお詫びが出来お礼が出来る。ね。
 そしてその次に向かえる月の指針を、またはエネルギーを頂く事が出来る、ね。ただ願うという事だけではなくて、本当にお礼とお詫びが心行くまで出来る。これは、この10月からどうでもこれを実行したい宵祭り。祭りとまでは、別にお供えをしたり、楽を入れたり装束を変えたりという事じゃないけれども、よりよりの者が集まって、一月の本当お礼を、お詫びを心行くまでさせて頂くようなおかげを頂きたいという風に、夕べ気づかせて頂いた、ね。
 これは本当に有り難い御祈念になりそうである、今後。ね、ですからこれは、決まったものじゃない、本当に一月の事を本当にお礼を申し上げなん、一月のことを本当にお詫びをさせて頂かなければという人たちだけでなからなければいけない、ね。月次祭に、一月のお礼とこれからのお願い、もう月次祭にいっぺん一日であれもこれも片付けてしまうといったようなことではなくてね。
 一月のお礼をもう月末のその宵にお礼を、お詫びをさせて貰う、そして新たに一日のお月次祭は一日のお月次祭としてお願いの祈願のお祭りをさせて貰うと、という事に是からなるだろうと私思うのですけどもね。そういう風に私一月のことを思いましても、本当に屑の子だな、不信心者だなという事をです感じる、ね。ですからその屑の子である不信心者であるという事をまず自分が知るという事その自覚に立つとイウコト。ね、
そこから私共は信心しておかげを受けていこう。その信心とは、ならどういう信心か。私今もとにかく申しましたように、ね、福から福を求めていくという信心ではなくて、ね。私共の行く手には苦はないという事の分からせて頂けれるような信心。ね、そこのところから、はもう根本的に信心を頂き直さなければ分からん。ぞうだんのごと、私だん福を頂きたいばっかり参りよるとにという人が多いのですから、ね。
 この世にあるものは神の愛だけだ、神愛だけだ。この世に苦労はない、あるものは修行だけだ、ね。そして修行という、修行と苦労というものとが、このようにも違うという事を私共は体験して行かなければならん。そしてなるほど全てが神愛であるなという事を分からせて頂く。そこからです、私は本当のおかげが頂けれるのじゃないかと。そういう信心が分からせて頂いて私共がです、ね、
 その日その日の立ち行くという事に対しましてです、それこそカバンの中をこう、ないものを探しておるようであるけれども、そこにはね、「  」与えられるモノがね、必ずある。ね、それを私は必要なものが必要に応じて、しかも無尽蔵に限りなく頂けれる。私共がそこにちゃんと当てにしてある訳じゃない。入っていないけれども、それを、どこにあるじゃろうかこう探しよると。
 神様がちょっとこうやって投げ与えて下さるようなおかげを受けてきておる。それにはね私が今日皆さんにこの御理解第8節から分からせて頂かなければならん事はです、ね、屑の子であるという事、不信心者であるという事にもかかわらずこのようなおかげを頂いておるという事。そこから、ここよりもそこから一日一日を、また一月一月をです、ね、心行くまでのお礼が出来、お詫びが出来る。
 そこに、ね、本当の信心生活出来てもおらんのに、たいしていい歌でもないのに、一つのこのアクセントがついておるところから、その歌の魅力というか、がそのあるように、一日を引き締めた一日、一月を本当に有り難い一月として頂く事が出来る。そういういわば、頂き方の中からです、ね、いよいよ信心を求めさせて頂いて、おかげを受けていく、信心して、おかげを受けてくれよと仰るおかげ、ね。
 ですから、神様とてもですね、ただその、屑の子ほど可愛いと言うてから、貧乏しておるから、病気しておるから、はあ良くならせてやりたい、あれに、お金を与えてやりたいと思われても、それを与えなさる訳にいけない事実をここに知るです私共は。ね、そこで私共が求めなければならない。求めるならば、求めるこういう求め方の中にしか、それを与えられるおかげは受けられない、ね。
 そこから福を求めるといったようなものではなくて、ね、この世には、ね、福。いわゆる苦はないと分からせてもらう。そしてそこから分からせてもらうもの、なるほど修行と苦労の違いを本当に、はあなるほど違う事を悟らせてもらう。はあ修行させてもらわんならん、そすとその修行はですね、まあむしろ、この有り難いもの、ね。その今まで苦労と思うておった苦労はです。
 もう実に尊いもの、おかげのもと、徳のもとに、である事に気づかせてもらう。そしてなるほどこの世にある私共の行く手にあるものは、苦しい事とか、難儀な事とか、恐いものではなくて、あるもの一切、それは神の愛であり、神愛であるという事を分からせてもらう。ね、そういうおかげを頂かせて頂けれる道をです、ね、立てられた。それをお道の立教の意義というのはそこにある、と私は思う、ね。
 難儀な氏子を取り次ぎ助けてやってくれと、ね、金光大神ご自身が受けておられる、そうした金光大神がおかげを受けてこられたおかげをです、話にして残しておって下さる、ね。金光大神の言われることに背かぬように信心をしていけばです、只今私が申しましたようなおかげが受けられるという事でございます。どうぞおかげというものを、福から福を求めることをおかげのように間違えてはなりません。ね、
 本当にそこにあるおかげというのは、ね、この世に苦はないという事を悟らせてもらえるという信心。そこんにきをわからせてもらう為に本気でその身から打ちこんでの信心からでじゃないと、そういう事が話を聞いただけじゃ分からん。身をもって分からせてもらうおかげを頂かしてもらわなければならんと思うですね、
   どうぞ。